坂本龍一さん

四柱推命日記
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※御三方の画像は所有するYMO写真集からです。

高橋さんの時ほど、ショックを受けなかったのが率直な心境です(闘病されていたことを報道で知っていたので)。「ついにか・・・」という気持ちです。坂本龍一さん。私が20代前半の頃、あなたのクールな佇まいと独創的かつ天才的な作品群に惹かれてYMOにはまりました。それから、ありがちですが戦場のメリークリスマスのイントロをピアノで練習したり、おもちゃのキーボードで坂本さんになりきって遊んだり(誰もいない場所で)、密かに色々したものです。

 

坂本さん、あなたは人の心を揺さぶる「メロディ」を作るのが上手かった。私も一時期、作曲なんぞやってましたが(あなたの作るメロディを目標の1つにしてました)、凡人にはたいした曲は作れませんでした。

 

並外れた努力をされたのだと思いますが、並みの人が死ぬほど努力しても、こうはならないので、やはり生まれながらの天才であったと思います。天国で高橋さんと存分にセッションを楽しんでください。細野さんだけになり、こちらは寂しくなりました。

※4月4日追記

この、「坂本さんへの記事」を書いて、この記事は終了にしようと思いました。しかし、どこか心がモヤモヤします。本当は、「坂本さん」や「YMO」のことをもっと色々書きたいのだと思います。しかし、今現在、「音楽ブログ」はやっていません(過去はやってました)。でも書きたい。YMOのお2人が亡くなられてしまい、喪失感がジワジワと押し寄せてきました。もともとの「私と音楽の関係」なども、あまり公表していませんので、この機会に、そのあたりも書いてみます。

 

私の高校時代の同級生なら、私が高校時代に、どんな活動をしていたかご存じだと思います。私は高1からエレキギターを始めて没頭し、バンドを組んで高校の文化祭に2度、出ました。市内のホールで、複数のバンドらと一緒に何度かライブを行いました。日夜、ギターの猛練習をしていました。高2の頃に、「バンドでギタリストとしてプロになりたい。なる」と決意しました。結果的にはギターでプロにはなれませんでしたが、そのような背景があり、今でも音楽は好きです。

 

高校卒業と同時に、大阪のとある音楽の専門学校に入学し、ギター演奏や音楽理論などを専門的に学びました(中退しています)。その頃にYMOの音楽を知り好きになりました(RCサクセション、キヨシローから、いけないルージュマジックで坂本さん、YMOに繋がったのだと思います)。当時、音楽で身を立てるためにと、日々、音楽漬けの生活をしていました。見知らぬ音楽があればすぐに聴いて、「この曲のKEYは●で、コード進行はこうこうで」と音楽を理論的に分析していました(当時、作曲、編曲を勉強していた)。幸い、耳は良かったようで(相対音感や絶対音感に多少近い能力)、専門学校の授業で時々行われていた音感クイズでは、いつも私が1番早く正答を出していました。

 

そんな、少し音楽にうるさい音楽青年の耳にも、YMOの音楽は、新鮮でしたしカッコよかったです。YMOには音楽的に難しい曲もあれば簡単な曲もありました。それらの曲の大半を創っていたのが坂本龍一さんということで、当然、尊敬の対象になりましたし、何とか坂本さんぐらいの音楽的センス・作曲能力を、自分も身に付けられないか?とかなり無謀なことを考えていました。私の中では、音楽的なナンバーワンの人物が坂本龍一さんでした。憧れたギタリストも色々といましたが(代表的な方は布袋さんや土屋昌巳さん)、その方々は「音楽的」な点では私の中でナンバーワンではなかったです。

 

大阪から延岡に帰ったあと(プロを半分あきらめていました)、色々なロックバンドを組んで作曲・編曲しつつ、ギタリストして活動しました。ただ、実際のところ、「ロックなどではなく、YMO的な斬新な音楽がしたい」と心の奥底では考えていました。しかし、なかなか、そんな音楽性を理解できるようなメンバーに、こちらでは出会えずじまいです。

 

坂本さんが亡くなられたことを知ったあとに、娘にYMOのライディーン(坂本さんでなく、高橋さん作曲)を聴かせたら、「いいね~。この曲はいい」と気に入ってました。良い音楽は何十年経とうと廃れず、残っていくものだと思います。とりとめのない文章になりましたが、坂本さんを尊敬して憧れておりました。素晴らしい音楽をありがとうございました。

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